東京高等裁判所 昭和61年(行ケ)240号 判決
一 請求の原因一ないし三並びに審決の理由の要点1(本願発明の要旨認定)、2(引用例の記載の認定)、3(本願発明と引用発明との一致点と相違点の認定)及び4(相違点に対する判断)のうち(1)、(3)、(5)、(7)は当事者間に争いがない。
二 そこで、原告主張の審決取消事由について順次検討する。
1 引用発明の誤認について
当事者間に争いのない本願発明の要旨によれば、本願発明は陽イオン性可電着性樹脂の水性分散液を含有する電着浴に鉛分(水溶性鉛化合物)を所定濃度となるように添加することを構成要件とするものである。
一方、当事者間に争いのない審決の理由の要点2、3及び成立に争いのない甲第五号証によれば、引用例にはカチオン(陽イオンと同義であるので、以下「陽イオン」という。)性可電着性樹脂の水性分散液を含有する電着浴に特定の金属化合物を添加することが記載されているが、右特定の金属化合物中に鉛化合物そのものが具体的に記載されていないことが認められる。
そこで、引用例にはその電着浴に添加する金属化合物として鉛化合物も示唆されているということができるか否かについて以下検討する。
(一) 前掲甲第五号証によると、引用例には、「カチオンの電位列中の金属イオンの電位は公知であ……る。この電位列は公知のように電極電位が上または下にある電極の電位よりどの程度に貴または卑であるかを示す。過電圧の印加によつて電位が鉄よりも卑である金属イオンを鉄に析出させることもできる。この例は亜鉛イオンであ……る。カチオンの電位列中の電位が鉄の電位より高く、かつ本発明の被覆浴に適する適当なイオンはたとえば銅、銀、コバルト、カドミウム、ニツケル、スズ、アンチモンのイオンである。」(三頁右下欄一~一六行)との記載のあることが認められる。
右の記載によると、引用例には引用発明の目的に適する金属イオン(金属化合物)として、まず電位列中の電位が鉄の電位よりも高いものであることを挙げ(もつとも、鉄の電位より低い電位のものでも過電圧の印加により鉄にその金属イオンを析出することができることも示しているが)、「たとえば…」との記載に続いて具体的には七種の金属イオンを挙げている。そして成立に争いのない甲第六号証(審決のいう「参考文献」)によれば、右の七種の金属イオンはいずれも電位列中の電位が鉄の電位よりも高いものであることが認められる。そして本願発明の目的、効果と引用発明の目的、効果とは、共に従来の電着浴を改良し、陽イオン性でしかも化学的前処理の不必要な水性電着浴及びその塗装方法である点で全く同一であることは当事者間に争いがなく(審決の理由の要点3)、また、鉛は、電位列の電位が鉄の電位よりも高いものであり、かつ、このことは当業者に周知の事項であつたことも当事者間に争いがない(審決の理由の要点4の(1))。
そうしてみると、電着浴に添加して用いる金属イオン(金属化合物)として鉛イオン(鉛化合物)が前記発明の目的を実現する上で支障をきたすなど不適当であるとの特段の事情がない限り、引用例の前記記載を見れば、これに掲記された前記七種の金属イオンの例にならい、鉄の電位よりも高い点で右七種の金属イオンと同様である鉛イオン(鉛化合物)を電着浴に添加して使用しようと考えることは、当業者であれば容易に着想できること、換言すれば引用例には鉛イオン(鉛化合物)についても示唆されているものと認めるのが相当である。
(二) そこで、右特段の事情の有無について検討する。
(1) 原告は、まず引用発明においては水溶性鉛化合物は好ましくないものとして認識されていた旨主張する。しかし、引用例(前掲甲第五号証)を仔細に検討しても引用発明において鉛化合物を使用した場合には、発明の目的、効果達成の上で支障をきたすことを窺わせる記載は全く見当らない。
(2) 原告は引用例には「本発明の被覆浴に適する適当なイオン」と記載されているところ、鉛は銅や銀と共に最も一般的な金属であるのに、この鉛の記載がないことは右の「適当なイオン」から除外されている趣旨である旨主張する。
引用例の前認定の記載中「本発明の被覆浴に適する適当なイオン」とは、引用発明の目的を達成しその効果を奏するのに適するイオンの意味に解すべきである(これと異るように解すべき特段の事情はなく、従つて原告が右の適するの意味を技術的にみて好結果が得られるとの意味に解すべきであるとする点は正しい。)ところ、引用発明の目的、効果が従来の電着浴を改良し、陽イオン性でしかも化学的前処理の不必要な水性電着浴及びその塗装方法である点で本願発明のそれと同一であることは前述のとおりである。そして、引用例には前記のとおり鉛化合物を使用した場合に発明の目的、効果達成の上で支障をきたすことを窺わせる記載がなく、また、この発明に適するイオンを具体的に記載するに当たり「たとえば」と表示した上で七種の金属イオンを掲記しているのであるから、この七種の金属イオンはあくまでも例示的記載であつてこれを限定的列挙とみることはできない。
そうすると、引用例に鉛イオンが掲記されていないことをもつて、引用発明は鉛化合物が不適当な金属化合物として除外されていると解することはできない。
なお、この点について審決は引用例にいう「本発明に適する」とはせいぜいコスト等の関係で通常用いない貴金属の除外を意図する程度のことである旨述べているところ、引用例に具体的に列挙された前記七種のものとそれ以外のものとがコストの関係で区別できるものと認めるべき証拠はないから、審決の右説示は適切であるとはいい難い。しかし、引用発明が特に鉛化合物を不適当なものとして除外するものでないとした審決の認定には誤りがないから、右の点は審決の結論に影響がない。
(3) なお、原告は電解電位列でみると該当金属一一種のうち引用例に七種の金属が例示されていることは、残り四種が好適なものとして認識されていなかつたと解すべきである旨主張する。しかし、右主張が失当であることは(1)、(2)に詳述したところによつて明らかである。
(4) 以上のとおり原告の主張は失当であり、他に前記特段の事情を認めるに足りる証拠はない。
(三) 以上のとおりであるから、引用例には鉛イオン(鉛化合物)についても示唆されているというべきである。
よつて、審決には原告の主張する引用発明の誤認はない。
2 本願発明の作用効果の看過の点について
(一) 前掲甲第二号証によると、本願明細書の二〇頁表1には、本願発明の実施例に相当する乳酸鉛及び酢酸鉛を用いた場合と無添加のもの及び引用例に具体的に記載されているニツケル、亜鉛、銅イオンに相当する乳酸ニツケル、酢酸亜鉛、酢酸ニツケル、酢酸銅を用いた場合の耐蝕性の試験として被覆鋼板に施したけがきクリーペイジの程度を比較したデータが示されており、これには原告が主張するとおりのクリーペイジの数値が記載されていること、そして、右のうち酢酸銅については表2(二四頁)の被覆特性の欄には「粗い」と記載されていること、また成立に争いのない甲第七、第八号証(いずれも宣誓供述書)によると、同号証はいずれも本願出願後に行つた耐蝕性の試験結果を記載したものであるが、これには、本願発明の実施例に相当する酢酸鉛を用いた場合と無添加のもの(但し、甲第八号証のみ)及び引用例に具体的に記載された金属イオンに相当する酢酸銅、塩化錫、酢酸ニツケル、酢酸コバルト、酢酸カドミウム、酢酸クロム、酢酸銀、酢酸亜鉛、酢酸アンチモンを用いた場合の耐蝕性の試験として被覆鋼板に施したけがきクリーペイジの程度を比較したデータが示されており、これには原告が主張するとおりのクリーペイジの数値が記載されていることが認められる。
しかし、前掲本願発明の要旨によれば、本願発明において電着浴に添加するのは広く鉛分(水溶性鉛化合物)であつて、乳酸鉛又は酢酸鉛に限定されるものではなく、また、本願発明における被覆対象には特段の限定はなく鋼板に限られるものでもない。従つて、本願明細書及び前掲甲第七、第八号証における前叙の記載は、本願発明の一つの実施態様における効果であり、これをもつて、本願発明がその構成上等しく奏せられる効果とみることはできない。そしてまた、本願明細書及び甲第七、第八号証に記載されている効果についての記載を見ても、本願発明の実施例に相当するものと引用例のものとの耐蝕性に関する差異(クリーペイジの数値)は量的なものであつて異質のものではない。しかも、引用例には前記認定のとおり鉛化合物が示唆されているのであるから、当業者は必要に応じてこのような鉛化合物について、引用例に具体的に例示された銅などの化合物との対比試験を行えば、右に述べた耐蝕性(防錆性)についての効果上の差異は容易に判明できるところであり、本件においてこのような試験を行うことが困難であるとする格別な事情は見当らない。
なお、原告は自動車用塗装において、クリーペイジが三ミリメートル以下でなければ実用に適しないものであるから、本願発明の作用効果は極めて重要な意義を有する旨主張する。しかし、前掲本願発明の要旨によれば、本願発明は広く電着浴及び電着塗装法に係るものであつて、自動車用塗装に限定されるものではないから、右原告の主張は採用の限りでない。
(二) そうすると、原告の主張する本願発明の作用効果は引用例に記載ないし示唆された事項に基づいて当業者が容易に予測できる域を超えているものとは認められない。
従つて、審決には原告が主張する本願発明の作用効果についての看過はなく、また、右看過を前提とする原告の選択発明に関する主張も採用できない。
3 以上のとおりであつて、原告の主張する審決取消事由はいずれも失当であり、審決には違法の点はない。
三 よつて、本訴請求は理由がないから棄却する。
〔編註〕 本願発明の特許請求の範囲第一項及び第四項は左のとおりである。
(第一項)
陽イオン性可電着性樹脂の水性分散液を含有する電着浴に鉛分が浴全量に基づいて一〇〇から三〇〇〇ppmとなる量の水溶性鉛化合物を添加することを特徴とする改良された電着浴。
(第四項)
陽極、陰極および陽イオン性可電着性樹脂の水性分散液を含有する電着浴を有する電気回路において、該浴中に鉛分が浴全量に基づいて一〇〇から三〇〇〇ppmとなる量の水溶性鉛化合物の水性分散液を添加することを特徴とする陰極として供給される電導性物質の改良された電着塗装法。